たまねぎ編



 台所へ向かった浜田のあとを、泉も付いて行った。離れてしまわないように服の裾を掴んでいる。
 簡単に出来るものを、と浜田が選んだ食材は、玉ねぎと卵、解凍した残りの鶏肉。冷凍したご飯をレンジで解凍して、親子丼を作るのだろう。
 手際よく調理していた浜田は、味を確かめるためにひょいと指で玉ねぎをつまんだ。熱い、と顔を顰めながら口へ運ぶ。泉も味見する?と差し出されたので、素直に口を開けて食べようとしたその時。
 浜田の身体がふらりと傾いた。
 どうした、と尋ねる間もなく、へたりと床に座り込んでしまう。
 泉は驚いて、
「浜田、浜田」
 と何度も名前を呼んだ。
 俯いたままの浜田は一旦顔を上げて、
「大丈夫、ちょっと立ちくらみしたみたいだ」
と言ったけれども、すぐに今度は肘も付いてしまい、やがて横向きに寝そべった。
 突然の事に焦るばかりの泉は、それでも火を消さないと、と思い出し、急いで火を消して、おいしそうな匂いのするフライパンには見向きもせずに、目を閉じている浜田の頬にかかる髪の毛をそっと払った。
 動かしていいのかもわからない。救急車を呼ぶべきだろうか。心臓がどきどきして飛び出してきそうだった。

 携帯が鳴る。
 こんな時に出てる場合じゃないと一旦は無視したが、聞けば対処法が分かるかもと、すがるように通話ボタンを押した。
「阿部、どうしよう、浜田がいきなり倒れた」
 相手が話し出すより先に勢い込んで言う。すると阿部は驚いたものの、
『落ち着け。症状は? 吐いた? 意識は?』
 と尋ねる。泉は浜田をじっと見つめて、できるだけ詳しく伝えた。
『今風邪ひいてるんだっけ? そういえば猫風邪って食っちゃいけないものなかっけ』
「え、そうだっけ!?」
 知らなかった事実に目を見開き、慌てて部屋に戻りパソコンを開いた。
「ありがと、調べてみる」
『おお。何かあったらすぐ医者呼べよ』
「うん」
 浜田の家はいまだ電話回線を使っていて、恐ろしく通信速度が遅い。なかなか出てこない検索画面に苛立ちながら、台所の浜田の様子を首を伸ばして窺った。


『猫風邪を引いている時は、すこしだけ身体が猫に近づきます。そのため、猫に食べさせてはいけない玉葱やイカなどといったものは、できるだけ避けたほうがいいでしょう。
もし食べてしまって貧血の症状が出た場合でも、人間の身体は大きいですからそう心配する事はありません。
横になって休んでいれば良くなります。
ただし、4,5時間経っても貧血が治まらない場合には、病院へ行きましょう。』


 泉は浜田の脇に腕を入れて、ずるずるとひきずった。二人の体重は15キロも違うから、いつもであればとてもベッドまで運べはしないのだったが、この時ばかりは必死で重さもわからなかった。
 そうは言っても体格の差は如何ともしがたく、どうにか浜田をベッドに上げたころには、泉はぜえぜえと肩で息を吐いていた。
「ごめんな」
 力の入らない腕を持ち上げて、浜田は泉の頬を撫でる。泉は無言で首を振って、添えられた掌にぎゅっと頬を押し付けた。
 肝心な時に焦って何も出来なかった自分が情けなく、そして今も何も出来ないのが辛い。
 さっきよりは少しだけましになった顔色に安堵のため息を漏らして、ベッドに這い上がる。もぞもぞと身体を動かしていつも浜田がしてくれるように、そっと浜田の頭を抱え込んだ。

 どれくらいそうしていたかわからない。ふと携帯を見ると、メールの着信を知らせるランプが点いていた。
 泉は浜田を抱えたまま、片手で携帯を開く。そしてメールを読むとすぐに、起き上がってベッドを抜け出した。
「泉?」
「メール!花井から!」
 不思議そうな浜田に携帯を差し出して、玄関へ急ぐ。


『阿部から聞いた。落ち着いたら外の袋回収してくれ。飯作ってもらったから』


「あとで阿部と花井にお礼しなきゃな」
「うん」
 花井が持ってきてくれたおかずやご飯を折りたたみの小さなテーブル並べて、遅い食事の支度をする。間食のはずが、あれからずいぶん時間が経っていたようだった。
 狭い家で、外廊下の物音も静かな昼間なら聞こえる事がある。それなのに泉は、花井の足音も、ドアノブに荷物を掛けてくれた音にも、全く気付かなかった。インターホンを鳴らさないで差し入れだけ置いていった花井の気遣いに、どうやってお礼をしようかと泉が考えていると、まだ横になったままの浜田が手招いた。
「食べさせて」
「もう元気になっただろ、甘えんな」
 浜田の耳はぴんと上を向いて、さっきまで元気がなかったしっぽも今はゆらゆらと揺れている。貧血はすっかり治まって、いつもどおりの浜田だった。
 けれど泉は、割り箸をぱきんと割って、浜田の好きな里芋の煮物を取ると、それを口元まで運んでやった。
 浜田は嬉しそうにそれを食べる。
「びっくりさせてごめんな」
 そう言って浜田は首を伸ばして泉の口にちゅ、と口付けた。それから黒い耳を撫でる。
 少しだけ煮物の味がする唇を舐めて、泉は浜田にしがみついた。

  泣きそうなのは怖いからじゃない、安心したからだ。
  泉はくすんと鼻を鳴らして顔を押し付けた。
 

2006/02/03
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