友人H



生まれてこの方、図書館などという場所には縁がない。学校に付属する小さなものですら殆ど足を踏み入れたことがないのだから、市の運営するこの建物は、梅原には場違いとすら思えた。
新しくはないものの、それなりに手入れの行き届いた入口には大きな花瓶が置いてある。名前も知らないがよく見かける花が生けてあって、床には咲き終えた花びらが散っていた。
カウンターは入口から見える位置にあった。頼まれて本を返しに来ただけなのに、迷う羽目になったら面倒だと思っていたから、すぐに見つけられて良かったと胸を撫で下ろす。返却口に持ってきた数冊を差し出して、ひとまず梅原の役目は終わった。何とかという本を借りて来いと言われた気もするが、既にタイトルも思い出せないのでこれはいいだろう。
(わりとでかいんだなあ)
一階は中央寄りにカウンターがあって、左手に児童書や絵本が並び、右手に新刊書籍と雑誌が並んでいる。子ども向けのコーナーがあるせいか、図書館という場所のわりには賑やかだった。
居心地の悪さからきょろきょろと辺りを見回して、ふと場違いな男を発見した。

「おーす、浜田」
去年の同級生で、何故か今年は後輩の浜田だった。
声を掛けると、浜田は熱心に読んでいた雑誌から顔を上げた。一瞬驚いた顔をしたあと、すぐにいつものようにへらっと笑う。
「梅原。何してんの」
図書館で『何してんの』はないだろう、とは思うが、梅原が読書とは縁遠い人間である事は浜田も知っているから出てきた言葉だ。
「妹に本返してきてくれって頼まれたんだよ」
自分で行けよと文句を言う前に、これからデートだからと走っていってしまったのだった。
「へー」
「浜田こそ何してんの。おっそろしく場違いなんだけど」
「ひでえなあ。オレここの常連だぜ」
「ほんとかよ」
「いやマジで」
梅原が胡乱な眼差しを向けると、浜田はほれと貸し出し用のカードを取り出した。使い込まれているのか扱いが雑なのかは判断がつきかねる所だが、とりあえず最近作られたものではないようだった。
「意外……」
「ま、難しい本も小説も読まねえけど」
「は?じゃあ何借りてんの?絵本?飛び出す絵本とか?」
「んなわけあるかよ、料理の本とか菓子の本とか。こういうの結構高いんだよな」
「…は?」
確かに、手にした本には美味そうな料理の写真が載っていて、それが料理のレシピを載せたものだとわかる。
浜田の家は両親が仕事で忙しく、家を明けがちだったから、浜田が料理などの家事をそれなりにこなす事は知っている。横断幕まで作れる器用さだ。
「はあ、好きだねえ」
「好きっつーか、まあ好きだけど。この前こういうの食べてみたいって言ってたからさー、つくってやろうかと」
誰に、とは聞かなかった。浜田がこういう締りのない顔で話す時、それは付き合ってる彼女の事を話す時と決まっている。
「彼女ちゃんか。おまえもマメだよなー、ほんと」
「うんまあねえ」
何故か浜田はごにょごにょと言葉を濁した。
意外なことに、浜田は彼女の写真も見せないし名前も教えてくれない。以前、名前くらい教えてもいいだろうと言ったら、『もったいないから嫌だ』と言われた。そんなわけで、梅原と梶山は仕方なくそう呼んでいた。自慢するのは大好きなくせに、妙なところで出し惜しみをする。
「そういやこの前も何か作るって言ってたよな。なんだっけ、ケーキ?」
「この前誕生日だったからな。あ、ついでにケーキの本も借りてくか」
浜田は棚から数冊の本を抜き出して、借りてくるとカウンターへ向かう。その背中を眺めながら、そういや彼女ちゃんは甘いものが大好きなんだっけと、かつて『甘いもの食べてる時の幸せそうな顔がめちゃくちゃ可愛い』とヤニ下がっていた顔を思い出し、梅原はげんなりとしてため息をついた。

「おまえさあ、よくやるよなあ。普通馬鹿々々しくてやってらんねえよ」
缶コーヒーのプルタブを開ける。図書館入口にある自販機には、梅原の好きなメーカーのものが置いてなかったので、仕方なくやたらと甘いだけのコーヒー飲料を選んだ。
「そうかあ?」
浜田はお茶のボタンを押した。ガシャンと落ちてきた缶を拾って、梅原の隣に腰掛ける。外は寒かったが、身震いするほどではない。
「オレ金ねえもん、金かけられないなら手作りで愛情勝負だろ。おまえだって、彼女が手作りの料理食わせてくれたら嬉しいだろ?」
「まあそうだけど。それにしても浜田はマメだって…つうか甲斐甲斐しいっていうかむしろ涙ぐましい?哀れ?」
「うわっなにそれひでえ」
「だってさー、すげえよおまえ」
梅原の記憶では、たしか彼女ちゃんは浜田に素っ気無いと言っていた。浜田が鬱陶しいくらいに世話焼きだという事を差し引いても、ものすごく邪険に扱われるらしい。そのうえ結構口が悪くて、容赦ないとか。
そんな彼女ちゃんを浜田はべたべたに可愛がっている。家に呼べば手料理を振る舞い、遠出する時は弁当を作り、度々お菓子を焼いては食わせてやったり、何くれとなく世話を焼いている。
顔は可愛いらしいが。素直になれなくてつい憎まれ口を聞いてしまうところが可愛いらしいが。自分にだけ我侭を言うところが可愛いらしいが。
付き合い始めて数ヶ月ならばそんなところも新鮮だろうが、何年もたてばいい加減うんざりするものではないだろうか。少なくとも梅原はそうだ。そういう相手はちょっと面倒そうで、遠慮したい。
「ちゃんと好かれてんの?俺にだけ我侭言うのが可愛いって、そう思ってる男があと数人いるんじゃねえのー」
「なんつうことを…」
浜田は何とも情けない顔をした。
「そういうこと出来るような器用な奴じゃねえし、あいつ結構潔癖だし」
「ああ、そんな感じかもなあ、話聞いてると」
何となく、何事にもストレートな浜田を警戒している節がある。梅原にはその理由がぼんやりと理解できたが、当の浜田には全くわからないようで、よくぶつぶつと愚痴を言っていた。それとなく教えてやろうかとも思うが、やはり面倒で放っておいている。問題が起きて、どうにもならなくなったら助けてやるかとは考えているが、特に何も問題がないのならばお節介を焼く必要もない。

「でもさあ、尽くしてるわりに報われてなさそうだよな」
実際にはそれなりに報われているのかもしれないが、話を聞くだけではどうにも浜田が割を食っているように思えた。
「んー、そうでもないよ」
浜田は頭を掻きながら、ぽつりと漏らす。
「まあ普段は素っ気無いけどねえ、一番辛い時に、一番近くで支えてくれたひとだもん、そりゃ大事にしますよ」
「……へー」
梅原はちらちと浜田を見遣る。穏やかな浜田の顔からは、言葉の奥に潜む物を察する事は出来なかった。

浜田はかつて、野球を諦めた。
他にやりたいこともあったにせよ、右肘の故障が大きな要因である事は間違いがない。
数年経った今、浜田の中では昇華されて過去の話とはなっているようだったが、当時はそれなりにやりきれない日々を過ごしたのだろう。
「なるほどねえ」
「いい子だよー、本当に」
「で、最近は飽きられ気味か」
「何でそうなるよ」
「だってオレ本人知らねえし。ちょっと話したりすればさー、ああいい子だなって思うかもしれないけど、おまえの話聞く限りじゃなあ」
梅原は残りのコーヒーを飲み干して、勢いよく立ち上がった。

「いい加減見せろよ」
「……それは駄目」
「何で」
「可哀相だから」
「誰が?」
「おまえと梶山が」
「はあ?」
「一目惚れしちゃっても望みなしじゃ可哀相だろー」
「アホか」
ちょっといい台詞を言ったかと思えばすぐこれだ。どうにも浜田という男は掴めない。
まあいい、と梅原は肩を竦めた。
「そんじゃオレ、これからバイトだから行くわ」
「おー、またなー」
歩道に出た梅原の背を、浜田の暢気な声が追いかけてきた。振り返ると、ひらひらと手を振っている。下ろした手には、借りたばかりの料理の本。

古ぼけた図書館の入口に、その姿は妙に馴染んでいた。

2005/11/28
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