夜の道を自転車で



 冬の夜は暗い。空気は凍りそうに冷たいし、身体はくたくたに疲れて足を動かすのも億劫だし、朝には20分で走りぬけた同じ道が、途方もなく遠く感じる。
 それでも皆と自転車を並べて、よろよろと走る帰り道は好きだ。今日の授業中のこと、練習のこと、新しく出たCDのこと、思いつくままにしゃべりながら、空腹を抱えて家路につく。
 最後まで一緒になるのは花井だ。あんまりへろへろしていると心配されるので、まだまだ元気な振りをするのは、泉のちょっとした意地だった。

「あ、浜田だ」
 だれかがそう言って、校舎の方を見た。なんとなく振り向くと、浜田と梶山さんと梅原さんがのんびり歩いてくるのが見えた。応援団の練習でもあったのだろうか。
「おっすお疲れ」
 浜田が手を上げた。
 そのままなんとなくぞろぞろと校門まで集団で歩いて、バスを使う梶山さんと梅原さんとはバス停で別れる。
 それからまず田島が三橋の手を引っ張ってなぜか自宅とは逆の方向へ走り出した。けれど帰りの寄り道はいつものことなので、誰も疑問にも思わずただ「元気だなー」と呟きが漏れた。阿部だけが「さっさと身体休めろよ」としかめ面でぶつぶつ文句を言うが、それもまたいつものことだった。
 そんないつもの光景を眺めた後、泉は帰るかと自転車を跨いだ。
 するとずしりと何か重たいものが荷台に乗っかって、何だと振り向くと、へらりとした顔があった。
「乗せてってー」
「はあ?何言ってんだ勝手に歩いてけよ」
「いいじゃんすぐ近くなんだし」
 ちゃっかり荷台に座った浜田をけり飛ばしたいのは山々だったが、いかんせん部活のあとで少しの力も残っていない。何を言ってもどかなそうな浜田の緩い顔を睨んで、仕方なくペダルを漕ぎだした。

 ところが、後ろの重みに負けて、あえなくよろけてしまう。
「わっ」
「泉!」
 小石を踏みつけてさらによろけて横倒しになる寸前、花井と沖に両側から支えられてなんとか転倒を免れた。自転車は、とっさに降りた浜田が支えている。
「ごめん泉!大丈夫?」
「平気?」
「大丈夫かー」
 口々に声をかけられて、泉はああともうんともつかない返事を返した。
「へーき、ありがと」
 どうにも格好が悪くて、小さな声になってしまう。
「大丈夫?」
 浜田が心配そうに眉を寄せているのを見て、泉は内心で舌打ちをする。ちょっとよろけただけなのに、このままだとものすごい勢いで謝られそうだった。
「危ねえなあ。へばってんの?」
 少し遠くで栄口と話していた阿部まで寄ってきてそんなことを言うので、益々いたたまれなくなる。
「へばってねえよ、浜田が重いんだって!」
 浜田はひょろりとしているが、身長があるから泉よりはずっと重い。確か15キロくらい違ったはずだ。
「泉、オレ漕いでくから後ろ乗んな」
 浜田がそう言うと、花井がほっとしたような顔をした。泉の返事を待たないで、浜田は自転車に跨ってしまう。
「つうか最初からそうしろよ」
 意地を張って拒むのも馬鹿らしく、何でもない風を装って浜田に漕がせることにした。

 頬にあたる夜風が冷たくて心地好い。
 浜田の漕ぐ自転車の荷台に後ろ向きに座って、並んで走る沖と花井と他愛もない話しをする。最後に花井と分かれてからは、なんとなくぼんやりと夜空を眺めていた。
 浜田はすいすいと自転車を漕いでいく。
 冬の空は澄んでいて綺麗だ。軽快にペダルを漕ぐ音、車輪の回る音を聞きながら、泉は星を見るのも久しぶりだと思い出した。
 昔、まだ小さかったころ、兄と二人で夜中に起き出して、星空を眺めたこともあった。そのときは窓を開け、布団を被って建物の合間から見える空を一生懸命見ていたけれど、今は浜田の背中に身体を預けて頭上に広がる空を見ている。
「泉ー、さっきごめんな」
 風に乗って浜田の小さな声が聞こえてきた。
「だから何でもないって」
 思わず苦笑が漏れる。
「でもさあ」
「昔は転んでも『自分で起きろよー』とか言って見てたじゃん」
 世話焼きは昔からだが、それほど過保護ではなかった。手を貸さなくても平気そうなら、自分でやらせて「よくできたな」と誉める奴だったはずだ。
「あれは普通のときだろ。今は泉めちゃくちゃ疲れてるから」
「そりゃそうだけど…あ、そこの信号で降ろして」
 信号を渡ってから道が別れる。ちょうど赤だったので、泉は降りようと身体を起こした。
「家まで送ってく」
「いいって」
「おやすみのチュウしたい」
「……」
「痛ぇよ」
 無言で頭をはたいたが、大して痛くもなさそうに浜田が笑いながら文句を言う。
 浜田のこんなところは、泉をいつも落ち着かなくさせる。
 慌てて周囲を伺うと、幸い声が届く距離には誰もいなかった。夜の九時半を過ぎたころには、この辺りは人通りがほとんどなくなる。ぽつりぽつりと帰宅を急ぐ会社員が数人、向かいの道路を歩いていた。
「そろそろ青になるよ」
 言われて信号機を見ると、ぱっと青の信号がついた。浜田は相変わらず自転車を降りようとはしない。
 少しだけためらった後、泉は荷台を跨ぎ、浜田の腰に腕を回して座った。すぐに自転車は横断歩道を滑り出す。
 浜田に漕がせた方が楽だし、疲れてるし、人気もないし、暗くてよく見えないし。泉は内心でいくつもの言い訳をしながら、浜田の背中にぺたりと頬を付けた。すると浜田が笑った気配がした。
 取りたてて会話もなく、流れていく景色を見るともなしに眺めながら、泉は浜田の広い背中から伝わる熱に目を細めていた。



「お駄賃」
 家の前に着いて自転車を降りると、浜田はくいと泉の袖を引っ張った。
「あ?」
 なんだそりゃ、と顔をしかめつつ、引っ張られるままに車庫の影に連れこまれて、そう言えば「おやすみのチュウがしたい」とか何とか言ってたっけ、と思い出した。
 ここでかよ、とためらいもしたけれど、一瞬だけならまあいいかと顔を寄せようとしたそのとき、
「あれ、考介今帰り?」
 兄の声がした。
 ぎょっとして振り向くと、玄関先に兄が立っている。
「浜田も一緒か」
「おす」
 先に動揺から抜け出した浜田は、泉の脇を通り抜けて兄と話し始めた。まだどきどきしている心臓を持て余しながら、泉は兄の様子をそっと伺う。二人が身体が重なるくらい近くにいたことには、気づかなかったようだった。
 兄と話す浜田はもうすっかりいつものとおりで、泉のよく知る「ひとつ上の友人」の顔だった。
「じゃあな、泉また明日な」
「おー」
 ひとしきり喋ってから、浜田は踵を返して元来た道を戻っていった。兄に促されて玄関をくぐりながら、結局「お駄賃」は無しになったなと苦笑が漏れた。
 最近はなかなか二人ですごす時間が取れなくて、同じ教室にはいるけれど、もちろん何もできない。結局今日もキスのひとつもできずに終わったと、さすがに寂しく感じた。

 部屋に入った途端携帯が鳴った。案の定浜田からで、泉が出るとすぐに、
『チュウしそびれた!』
 と、不満気な声がした。
 噴出すのを堪えながら、泉は着ていたコートを脱いで、ハンガーにかける。
「いいだろそれくらい」
 わざと呆れた声を作って言ってやると、電話の向こうでぶつぶつと文句を言っている。
 泉には、浜田のように素直になることができない。それでも同じ気持ちを伝えたくて、どう言えばいいのかと考えてると、浜田が突然沈黙した。
「……浜田?」
『今いいこと思いついた!』
 嬉々とした浜田の声がする。
 こういうときの浜田は、たいていろくなことを言わない。身構えて次の言葉を待つ泉に、浜田はお楽しみを待つ子供のような無邪気さで言った。
『いずみ、泉!電話口でちゅってして!こうやって音立て』

 プツッ

 泉は最後まで聞かずに電話を切って、枕の下に携帯を突っ込んだ。

「考介ー、お風呂入りなさいよー」
「すぐ行く!」
 ちょうどよく聞こえた母の声に答えて、ばたばたと部屋を出る。
 勢いよく服を脱いで、乱暴に洗濯物を突っ込んで、ざばざばお湯を使って、頭を洗う。「うるさい」と風呂場の外から文句を言われた気もするが、聞こえない振りをして適当に身体を洗ってさぶんとお湯に浸かった。

「あー……」
 どうせ電話をかけ直してしまうのだろう自分を思い、何とも複雑なため息が出た。
 

2006/02/05
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