里帰り



なんとも奇妙な光景だ。
家のカレーといえば、市販のルーを使った極一般的なもので、これと言って特徴もない。強いて言うならば、たまに母が気まぐれを起こして、グリーンカレーなぞを作った挙句に失敗して、その翌日、近所に住む昔馴染みの男がどんな魔法を使うのか、ちょいちょいと何かを足して蘇らせる。
それがどうしたものか、今朝はルーから作ると張り切って、玉葱を丹念に炒めていた。今は大鍋をかき回しながら、味見をしている。とりあえず順調なようだが、最後の最後で失敗したらどうするつもりだ。やりかねない。
今日に限っては、あの便利な男を呼ぶのも気が引けるだろうし、それとも母の事だから、面倒になったら本当に呼びつけるつもりだろうか。

上機嫌な母親に対し、父親は朝からうろうろと落ち着きなく家中を彷徨った挙句、母に鬱陶しがられて庭に草むしりに出た。それが2時間前。それから芝の一角を禿にして、汗を流すと風呂場へ向かったのが5分前。風呂桶を落とすのは3度目だ。
一体何をしているのだか。

かく言う自分も、既に何本の煙草を無駄にしたか分からない。普段はあまり吸わないから、カートンで買い置きもしていない。
「母さん、ちょっと外出てくる」
「ええ?もう帰ってきちゃうわよ」
「まだ1時間以上あるだろ」
「会わない気?」
聞いちゃいない。

なんだかなあ。
まさか自分が、こんな気分を味わうなんて思ってもいなかった。



さて、時計の針が12時を過ぎた頃、その人物はやって来た。

「ただいまー」
「おかえり孝介」
「おう、久しぶり」
「あれ兄ちゃんもいんの」
一月ぶりに見た弟は、相変わらず童顔で目が大きい。親だけだと思っていたのだろう、オレの顔を見て驚いた顔をする。
オレだって今日家にいるとは思わなかったよ。
「親父命令でな」
「へえ」
ばたばたと廊下を歩いて、「これケーキ」なんて言ってる孝介を見送ってから、親父もあんなにそわそわしてたんだから迎えに出ればいいものを、気にしてない素振りで格好つけて滑稽だよなあ、と、思わずため息を吐いた。

4人でカレーを食べつつ、喋っているのは母親ばかりで、孝介は、ああとかうんとか適当に相槌を打つばかりだ。
まあオレもいつもそんなだし、これは昔からそうなんだけど。
ただ父親だけが、何か言いたそうに視線を動かしてみたり、やたらと麦茶を飲んでみたり、挙動不審になっている。
孝介も母親も、それに気付いてるくせに、さらりと無視してやがって薄情だ。オレもだけど。
「浜田君、元気なの?」
「元気元気、無駄に元気」
ついに母親がその名前を口にして、その途端に父親の肩がびくりと震えた。
ああもう、それじゃあまるっきり娘を嫁に出した父親だっての。
同じだけどな。今日は里帰りの日だしな。

そう。
そうなんだよ。
去年のいつごろだったか、高校卒業間近の冬の日に、孝介は「来週から合宿だから」って言うのと同じ調子で、
「オレ、浜田と結婚するから」
って言いやがった。
突っ込みどころは満載で、まあ色々揉めたんだけど、最終的に本人の好きなように、っていうか、母親の
「浜田君以上に孝介の事可愛がって甘やかして大事にしてくれる人、見つけるの難しいわよねえ。家事も完璧だし」
っていう呟きに、黙り込むしかなかった。
ケチをつけるとすれば、男同士ってことと二人とも若すぎるってことと、浜田がアホだってことくらいなんだけど、同姓婚は数年前に法律で認められちゃったし、学業とバイトの両立でもギリギリ本当にギリギリ何とかなるって説得されちゃったし、浜田はアホだけどすんげえいいやつで人望厚いってことくらい、父親だって知ってるし。
アッチの親戚に格安でアパート貸してあげる、なんて言われちゃったら、ねえ。
結局、ご祝儀として学費もろもろ含めた孝介の為に貯めてた預金通帳渡して、太っ腹なところ見せた親父はその代わりに、月に一度顔を見せに来ること、その時にちょっとでもやつれてたり苦労してそうな気配があったら、そのまま返さないことなんかを約束させて、渋々承諾したのだった。
本当はその時も、いろいろあったんだけどねえ。

今日がその約束の日、月に一度のお里帰りってわけ。
正直、金のことにしても生活にしても、やってけんのかよって思ってたけど、久しぶりに見た孝介は何にも変わらなくて、苦労なんかしたことありませんってツラしてて、それどころか家にいたころより髪つやつやしてますけど。
「おまえいっちょまえに髪の手入れなんかしてんのか」
「へ?あー浜田がなんかトリ……、トリ…パ……?」
トリッパは牛の胃袋ですが。トマト煮込み、上手いよな。
「トリートメントパック?」
「それそれ」
……単に買ってくるから使ってるだけか、それともしてもらってんのか?いや聞きたくねえな。
「浜田君マメねえ」
「床屋行かなくていいから楽」
「あら切ってくれるの?」
「そー手先だけは器用だから」
おいおい甘やかしすぎだろ浜田。つうか新婚てこれが普通なのか?

「さて、じゃあ頂いたケーキ食べようか。何かしらー」
内心首を捻っているうちに母親の食事も終わったようだ。
「ロールケーキっつってた」
もしかしてもしかして。
「なあそれって」
「浜田君ケーキ上手だもんね、楽しみ」
ああやっぱり。

どうして男と、よりによって浜田と結婚する気になったんだ、っていうのは相変わらず謎だ。
それでも、美味そうにケーキを食べる弟の姿に安堵を覚える。
おまえの連れてきた彼女、胸でかいなあなんて会話ができないのは残念だけど、偶には二人で潰れるまで飲むか、なんて誘えないのかもしれないと思うと残念だけど。

結婚した弟が幸せで何よりだ。

2006/07/17
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